高橋フミアキがいま書いている小説です。
まだまだ、このあと何度も書き直すと思いますが、
とりあえず、ブログに保存しておきます。
DVDの円盤がレコーダーに吸い込まれていく。田中あかりはリモコンを操作して、DVD視聴に切り替える。50インチのテレビ画面が一瞬暗くなり、白字の会社名がぼんやりと浮かび上がり、しだいに鮮明になる。『株式会社孫子ビジネス研究所』の文字を見て、あかりは「株式会社を設立しているんだ」と思った。景気のいいにぎやかなシンセサイザーの音がテレビスピーカーから流れてくる。
「まずはこれを見て勉強してください」
5分前、孫正典はそう言って部屋を出て行った。
孫正典はあかりと同じ大学3年生だが、年齢は5つ上である。中国からの留学生だ。2年前に便利屋のチラシをキャンパス内で配布しながらしつこく「何か困ったことはありませんか」と食い下がっていた孫正典があかりは嫌でしょうがなかった。「いいです」と断っても、チラシを受け取るまで20メートルくらいついてくるのである。売り込まれて喜ぶ人などいないし、売り込むような人と友だちになる人もいないだろう。それでも孫正典は平気な顔で大学の正門を出たところで、チラシ配りをしていた。キャンパスで友だちができなくても孫正典にとっては何の問題もなかったのであろう。
孫正典は西新宿の40階建てマンションの35階に住んでいた。マンション内にフィットネスルームやプールのある高級マンションだった。ここが事務所兼住居である。大学生でこんなマンションに住めるなんて「どうゆうことだろう」と思った。しかも、大学生が株式会社を設立するなんてあかりには信じられなかった。中国の両親がお金持ちなのだろうくらいに考えていた。まさか、孫正典が自分で儲けているとは予想だにしなかったのである。
DVDがいよいよ本編に入る。「赤字企業が孫子の兵法でV字回復する」という文字が大きく写し出される。にぎやかなエレキギターとシンセサイザーの音が流れる。新宿の高層ビル群が天まで届くかのような勇姿として表現されたかと思うと、画面が変わってビジネスパーソンの男女たちがスクランブル交差点を歩く。無数の脚が交差する。靴音がまるで軍靴をイメージさせる。道ゆく人々の顔の表情がアップになるのだが、どれも笑顔はなく眉が吊り上がったまぶしい目をしていた。
あかりはソファに背中をあずけてゆったりと座って見ることにした。60年代のアメリカをイメージさせるロックテイストのソファとガラスの丸テーブル、薄型テレビのほかは何もないシンプルなリビングだった。おしゃれで快適な部屋である。壁にかけてあるマリリンモンローを描いたアンディ・ウォーホルのシルクスクリーンプリントを眺めながらうらやましいなとあかりは思う。DVDよりも部屋のほうがあかりには気になった。
派手な音楽とともにテレビ画面には札束が積み上がっていく。帯のついた1万円札の束が無造作に投げられる。それが盛り上がり山となる。帯の表面の1枚だけが本物の1万円札で、束のなかみは偽物に違いない。あかりはそんなことを考える。
画面が変わり、貯金通帳の差引残高の欄がアップになる。100万円単位の数字が映し出される。カネ、カネ、カネって、ちょっとどうなの? とあかりは思った。
テレビのスピーカーから孫正典の声が出てくる。
「これは私がコンサルティングを請け負った会社の口座です。入金が毎日のようにあるのがおわかりでしょうか」
売上推移をグラフに表したものが画面に大きく現れる。
「この会社も3年前は赤字であえいでいました。その3年前にV字回復するターニングポイントが訪れたのです。社長みずからが原点に立ち返り、戦略の立て直しと組織の見直しをはじめました。そのときどのような変化がこの会社に起こったのでしょうか?」
テレビ画面には、その会社の社長が現れて、当時のことを語った。孫正典と出会い、いま何が必要なのかがわかった。彼は若いがしっかりとした哲学がある。それは歴史の風雪に耐え、いまなお息づいている『孫子の兵法』である。孫正典から学ぶ『孫子の兵法』は、古くて新しい。経営者自身が学び、社員たちも学んだ。その結果、常に考え、常に工夫する組織が出来上がった。どんな環境の変化がやってきても、常に考え、常に工夫してみずからを変化させることができるようなった。
成功事例として社長は、ヒット商品をどのように開発したのか、あるいは、社員たちからアイデアを吸い上げる仕組みなどを語った。
次に孫正典が登場する。
「『孫子の兵法』は中国・春秋時代の思想家・孫武が書いたものだとされている兵法書です。紀元前515年ごろの書物です。その後、三国志の曹操が整理しました。日本の戦国武将の武田信玄やフランスのナポレオンが愛読したことは有名な話です。近年では毛沢東が積極的に活用し、米軍も参考にしているといいます。この兵法書をビジネスに活用する動きも活発で、経済評論家の大前研一氏が経営者たちにすすめています。ビジネス雑誌でも『孫子の兵法』が何度も特集されていて、長引く不況を乗り越える知恵を教えています。いまこそ、『孫子の兵法』を学ぶべきです。ライバルたちはすでに学んでいます」
孫正典がテレビの中で延々と『孫子の兵法』を語っていた。
大学生が企業の経営コンサルタントをしているのだ。2年前は大学生相手に便利屋をやっていた孫正典がいまはコンサルタントで儲けている。そのことがあかりには驚きだった。
『孫子の兵法』は13章からできていて、DVDは13枚ある。13枚組セットで96,000円のところを、大特価で58,000円。それが高いのか安いのかあかりにはわからない。自分とはまったく違う世界のことのように感じていた。
あかりは、孫正典の解説を聞いてもさっぱり理解できない。そもそも『孫子の兵法』って何なの? 何がそんなに凄いの? 何が書いてあるの? さっぱりわからない。
昨日、あかりは「中国の春秋時代って、江戸時代より古いの?」と孫正典に質問した。すると孫正典は「中国が春秋時代だったころ、日本はやっと弥生時代になったところだ」と失笑した。あのときあかりは孫正典に質問するのが嫌になった。バカにするのもいい加減にしてほしい。
軽いテレビ依存症で自宅に帰ったらすぐにテレビをつけて、深夜になってもなかなかテレビが消せず、いつまでも起きてしまうあかりだが『孫子の兵法』DVDだけは例外だった。目を凝らして見ていても頭に入ってこない。上の目蓋が重くなってくるのだ。
大きな窓ガラスをキラキラと照らす4月の陽光も、ほんの数分前に食べたランチのカルボナーラも、あかりの睡魔と闘う抵抗力を奪うものでしかなかった。さらに床暖房から上がってくる温かい空気があかりを朦朧とした世界へといざなうのだった。
孫正典の会社であかりがアルバイトをすることになって1日目である。DVDを見て勉強するように指示されたにもかかわらず、あかりは心地よいソファで深い夢の底へ落ちて行くのだった。

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